他者を聴く大切さ
お変わりありませんか。
私はつい最近名古屋に行ってきました。
かれこれ4年通い詰めている名古屋ですが、
こうして何度も訪れてみると、地名はおろか、
街の作りや人の流れ、食べ物の特徴が肌身を通じて馴染んでくるのがよく判ります。
まだまだ懲りずに名古屋には通っていきたいと思っており、
何度も訪れる度に起きる発見は、そのうちに感動と化して参ります。
私が現在、映像制作を通じて行いたいのも、
そんな「共有」「共感」「共鳴」のプログラムだったりします。
自分のライフワークでもある、「教育に於ける映像制作に在り方」
現在いろいろな場所でワークショップを行っております。
この企画を今年から定期的に行っていこうと思っており、
詳しくはまた改めて書きたいと思っております。
最近、よく思うことは、「聴く」ということです。
メディアが発達して、私たちは情報を発信する機会が急激に増え、
いろいろな意見を瞬時に届けることができるようになりました。
場所や時間、時には身分の間を越えて、思うように意見を伝えられることは、
積極的に議論を交え、成長をしていける素晴らしいきっかけだなとよく感じます。
その反面、メールやテキストだけで自分の気持ちを
伝えっぱなしにしてしまわれる方も少なくないなと思います。
当事者の陰でぶつけられない本音を集団で噂することも、
気持ちがよい物ではありません。
自分が幼少期からずっと感じていた
この嫌な行為、ひいてはイジメや陰口なども
周囲で目の当たりにすることは少なく有りません。
都度都度の状況があるので、全てがそのまま悪しきことであるとは言い切れませんが、
できる限り、誰かが嫌な思い、孤独な気分を感じてしまうことは、
避けられたらよいなと常々感じております。
日本には、古来より「阿吽の呼吸」が備わっている素養があったのかと思います。
島国でご近所の顔が見えやすい生活環境の中で、
慎ましく安全に暮らしていく工夫があったのだと思います。
戦後、経済成長の中、メディアの発達、生活環境の欧米化に伴い、
その阿吽の呼吸もいつしか、物を言わない=自分を守る
と行ったボタンの掛け違いになってしまったのかと思っています。
それが昨今の日本のイジメや集団で誰かを批判するという行為に繋がっていると
よく思います。
私たちは誰しも、悲しみに満ちた生活を送りたいとは思っておりません。
幸せに生きるために、日々努力しながら、仕事をし、家族を養い、
幸せを育んでおります。
その意識が、家族という密接な間柄でさえも、
自分の考えだけで物を言ってしまうことを日常の中によく見受けます。
自身も生きてきた中での苦しみは、家族や学校の友人からの態度や言動であり、
それは知らず知らず、自身も他者に行っているものかも知れません。
「自分が幸せになる」
これは決して一人ではできることではありません。
「他人がいることで自分がいて、幸せになれる」
という前提条件が隠れております。
その中で、必要不可欠になることが、
「他人の存在を知る」ということです。
他人を知る。育った環境や今置かれている状況、性格や気持ち、
様々な要素があります。
それらに一度、耳を傾けてみることは、
他人から何かを学ぶことに繋がることと思っております。
そうすると、自ずと他者との接点である自分が伝えたいこと、
そして他者が「共感」してくれる気持ちを届けることができると思います。
例えば、おいらが何か自分を紹介するとなると、
「Aという活動をしており、Bという考えを大切にしてます。
Cという会社に所属しており、Dという学校に在籍しており、
現在Eというテーマの映画を撮っており……」
と上げると
10程度の項目があったりします。
それが大人数ではなく、1:1で誰かと話す際には、
その要素を全て伝えるのは、なかなか難しいものです。
そんな時に、まず大切にしていることは相手の素性を
「聴く」「知る」「感じる」ということです。
相手の属性をまず咀嚼した上で、自己アピールの内容を、
「A」と「C」と「E」にしようとか、「B」と「C」と「D」にしようとか、
3つを越えないように組み合わせ、相手によって、
自己紹介の仕方を常に変えるようにしてます。
自分の主張だけはしっかりして、後は投げっぱなしという人も少なく有りません。
そんな中、幸せな気持ちを膨らませていくためのコミュニケーションは、
他者を聴き、他者を知り、他者を感じるところから始まると思っております。
そんな人の持っている潜在的な成長を映像を用いたワークショップで育んでいきたい、
というのが、作品創りと並行した、
おいらの生涯掛けてのライフワークです。
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