アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(2) 〜ALと「世間」との関係〜
前回、小生の学生時代は、他人の目を気にするただならぬ空気感が漂い、閉塞感に苦しまれた、と書きました。
他人の目を気にしながら、物事を発言する(しなければいけない)。
個性を出さずに、その場所の流れに任せて行動する(しなければならない)。
ここには、日本人の風土に根付く「世間」という考えがあると言えるのではないでしょうか。
無言の意識で相手の気持ちを察して、行動をする。
昨今の流行り言葉の「忖度」という言葉がありますね、まさにあれと近しいものです。
大震災の時に、日本人が列車に列を成して並ぶ姿はその象徴でもあったと思います。
あれは、他人と足並みを乱してはいけないという
世間という意識が日本人に根付いているからだと思います。
このことを考えているうちに5年前に読んだ劇作家の鴻上尚史さんの
『「空気」と「世間」』という本のことを思い返しました。
世間というのは、自分に関係のある世界のことを指します。
電車の列を並ぶ光景、大事発生時でも暴動が起きにくい日本人というのは、
個人のあり方が、他の個人との繋がりの関係性の中で
築かれているコミュニティということなのです。
鴻上さんの本では、
例えば、仲間が昼食にラーメンを食べたいというと他の人も同調してラーメンと行ったり、
人前での自己紹介で故郷の話をすると、二番目以降の人も故郷の話をしたり、
という例を出されておりました。
これを「所与性」と言い、「世間」は、自分が選ぶものではなく、あらかじめ与えられている運命的なものということになるのです。
世間が流動化すると、「空気」となり、よく耳にする「空気を読め」、あの空気になるのです。
世間というのは、他者との関係性では強固ではあるものの、個は埋没し、ある種の閉塞感を生み出してしまうのだと考えます。
高度経済成長、終身雇用、縦型組織の仕組みが一般であった日本では、そのあり方は適応していたのだと思います。
例えば、会社では上司の顔色を伺い、アフター5では、呑み会に付き合わされ、家庭では愚痴をこぼすという、生き方はその代表的なものと言えるのでしょう。
それが時代が変わり、多様性が求められるようになった90年代からは、
抑圧されてきた世間に嫌悪感を抱いた人間が続々と出現してきたのです。
鴻上さんは、世間は
①贈与・互報の関係、②長幼の序、③共通の時間意識、④差別的で排他的、⑤神秘性
から成り立っていると話しております。
ご興味がありましたら、ぜひ『「空気」と「世間」』をご一読いただくと良いと思います。
日本とは逆に世間の考え方が薄いのが欧米のあり方で、
「社会」=自分に関係のない世界がそれだと表現しています。
歴史学者の阿部謹也さん曰く、社会=societyという言葉ができたのは、明治10年頃だそうですので、富国強兵・西洋化が急速に進む中で生まれた概念、それまでは、社会という概念は日本には存在しなかったようです。
例でいうと、日本人は網棚に置かれた荷物を盗まない、諸外国なら目を離した瞬間に盗まれているというのも、網棚の荷物を自分とは関係のない社会と捉えている現れだということになるのです。
また、欧米の人がきっぱりと「NO」をいうのも、自分が向き合っているのは、そこにいる人間ではなく、唯一契約をしている神という存在があるからだからだということなのです。
話を教育に戻すと、小生が自死を考えるまで至った今までの大学受験もまさにこの世間の考えによるものなのだと思えるのです。
他人と点数のみを争い、その勝ち負けで自分を評価せざるを得ない。
決して、その評価が悪いと言っている訳ではありません。
その点数に個性やプロセスと言った標準化されない自己評価の可視化が必要だと小生は考えているのです。
先ほども申した通り、世間というのは自分が選ぶのではなく与えられるもの、それに意識をしすぎた日本人がいて、それが現代では、通用がしなくなってきたのです。
家庭における親子問題も、学校におけるいじめの問題もここに一つの問題の要因があるのではないでしょうか。
親の理屈を子供に押し付ける、教師の考えを一方的に生徒に教え込む、その考えが子供を苦しめ、自己否定感を生み出しているのだと思うのです。
決められたたった一つの「正解」を闇雲に求めるのではなく、個々人が納得できる「納得解」を如何に表現していけるかが、教育現場、そして家庭環境にも必要になったのです。
そして世間は完全に無くならないと思いでしょうし、世間にも冒頭述べたました通り、日本らしい素晴らしい文化とも言えます。