1月 2018Archives

アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(2) 〜ALと「世間」との関係〜

アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(1):https://coneyshun.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html

前回、小生の学生時代は、他人の目を気にするただならぬ空気感が漂い、閉塞感に苦しまれた、と書きました。

他人の目を気にしながら、物事を発言する(しなければいけない)。
個性を出さずに、その場所の流れに任せて行動する(しなければならない)。

ここには、日本人の風土に根付く「世間」という考えがあると言えるのではないでしょうか。
無言の意識で相手の気持ちを察して、行動をする。
昨今の流行り言葉の「忖度」という言葉がありますね、まさにあれと近しいものです。

大震災の時に、日本人が列車に列を成して並ぶ姿はその象徴でもあったと思います。
あれは、他人と足並みを乱してはいけないという
世間という意識が日本人に根付いているからだと思います。

このことを考えているうちに5年前に読んだ劇作家の鴻上尚史さんの
『「空気」と「世間」』という本のことを思い返しました。

世間というのは、自分に関係のある世界のことを指します。

電車の列を並ぶ光景、大事発生時でも暴動が起きにくい日本人というのは、
個人のあり方が、他の個人との繋がりの関係性の中で
築かれているコミュニティということなのです。

鴻上さんの本では、

例えば、仲間が昼食にラーメンを食べたいというと他の人も同調してラーメンと行ったり、
人前での自己紹介で故郷の話をすると、二番目以降の人も故郷の話をしたり、
という例を出されておりました。

これを「所与性」と言い、「世間」は、自分が選ぶものではなく、あらかじめ与えられている運命的なものということになるのです。
世間が流動化すると、「空気」となり、よく耳にする「空気を読め」、あの空気になるのです。

世間というのは、他者との関係性では強固ではあるものの、個は埋没し、ある種の閉塞感を生み出してしまうのだと考えます。
高度経済成長、終身雇用、縦型組織の仕組みが一般であった日本では、そのあり方は適応していたのだと思います。
例えば、会社では上司の顔色を伺い、アフター5では、呑み会に付き合わされ、家庭では愚痴をこぼすという、生き方はその代表的なものと言えるのでしょう。

それが時代が変わり、多様性が求められるようになった90年代からは、
抑圧されてきた世間に嫌悪感を抱いた人間が続々と出現してきたのです。

鴻上さんは、世間は
①贈与・互報の関係、②長幼の序、③共通の時間意識、④差別的で排他的、⑤神秘性
から成り立っていると話しております。
ご興味がありましたら、ぜひ『「空気」と「世間」』をご一読いただくと良いと思います。

日本とは逆に世間の考え方が薄いのが欧米のあり方で、
「社会」=自分に関係のない世界がそれだと表現しています。

歴史学者の阿部謹也さん曰く、社会=societyという言葉ができたのは、明治10年頃だそうですので、富国強兵・西洋化が急速に進む中で生まれた概念、それまでは、社会という概念は日本には存在しなかったようです。

例でいうと、日本人は網棚に置かれた荷物を盗まない、諸外国なら目を離した瞬間に盗まれているというのも、網棚の荷物を自分とは関係のない社会と捉えている現れだということになるのです。

また、欧米の人がきっぱりと「NO」をいうのも、自分が向き合っているのは、そこにいる人間ではなく、唯一契約をしている神という存在があるからだからだということなのです。

話を教育に戻すと、小生が自死を考えるまで至った今までの大学受験もまさにこの世間の考えによるものなのだと思えるのです。
他人と点数のみを争い、その勝ち負けで自分を評価せざるを得ない。

決して、その評価が悪いと言っている訳ではありません。

その点数に個性やプロセスと言った標準化されない自己評価の可視化が必要だと小生は考えているのです。

先ほども申した通り、世間というのは自分が選ぶのではなく与えられるもの、それに意識をしすぎた日本人がいて、それが現代では、通用がしなくなってきたのです。

そして、過剰に世間にへりくだり、抑圧や否定を受け入れることに限界がきているのだと思うのです。

家庭における親子問題も、学校におけるいじめの問題もここに一つの問題の要因があるのではないでしょうか。
親の理屈を子供に押し付ける、教師の考えを一方的に生徒に教え込む、その考えが子供を苦しめ、自己否定感を生み出しているのだと思うのです。

決められたたった一つの「正解」を闇雲に求めるのではなく、個々人が納得できる「納得解」を如何に表現していけるかが、教育現場、そして家庭環境にも必要になったのです。

前回ご紹介した哲学者の苫野一徳さんも「勉強するのは、〈自由〉になるため」と表現しているのも、この世間の考え方に大いに通ずるものと考えています。
この〈自由〉というのは、好き勝手に何をしてもいいということではなく、他者の抑圧に縛られることなく、心を自由にさせる生き方を意味していると小生は捉えております。
そのためには、偏らない知識や発想を身につけ、目の前に課題に立ち向かえるだけの道具を身につけることなんだと思うのです。
そのためには、何かに果敢にチャレンジをする姿勢が不可欠だと考えます。
「失敗することを恐れずに、物事を試して見る。失敗したら改善を行う」
その考えがアクティブ・ラーニングを象る一つの大切な概念だと思っております。
先ほどの鴻上さんも、
「他人に迷惑をかけない人間になれ」ではなく、
「相手がそれを迷惑と感じるかどうか」が大切だと語っています。
「相手を思いやる能力」ではなく「相手とちゃんと交渉ができる能力」が必要である。
これがまさに、現代求められているコンピテンシーなんだと思います。
世間どっぷりだった日本人は、すぐに世間をいう概念から離れることは難しいのでしょう。
そして世間は完全に無くならないと思いでしょうし、世間にも冒頭述べたました通り、日本らしい素晴らしい文化とも言えます。

なので、その閉塞感の世間とうまく交わりながらも、個としての〈自由〉を主張できる存在になるために、「アクティブ・ラーニング」を通じて自分を成長させていくことが大切なのだと思うのです。
(続く)

アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(1)

謹んで新年ご挨拶申し上げます。
昨年も多くの皆様にお世話になりました。
本年が皆様に於かれまして、健やかで笑顔溢れる年となりますことを切にお祈り申し上げます。

昨年は、京都、大阪、兵庫、広島、鹿児島など、多くの各地の方々とお会いさせていただきました。

小生は、映画監督と教育という活動をさせていただいているので、
ジャンルを越えて、様々な方々とお会いさせていただき、
対話をさせていただき、体験に基づく学びを授かっていることが
何より幸せだなと感じております。

学びというのは、体験に基づく感謝のバトンタッチであると思っております。
自分が得た気持ちを如何に、誰かのために成長させ、
それをおすそ分けしていくことで、新たな気づきを授かる、そんな風に思っております。

そんな思いを沢山蓄えていたこの半年、
本年公開予定の「あまのがわ」の撮影にドップリだったため、
ブログもすっかりご無沙汰しており、大変失礼を致しました。

そこで、本年第一回目の投稿は、
アクティブ・ラーニングと社会の関係を綴りたいと思います。

おかげさまで、アクティブ・ラーニングの問い合わせも沢山いただくこととなりました。
これもデジハリ大学院時代にきっかけをいただいた羽根拓也先生、及び、
全国の素晴らしいアクティブ・ラーナーの皆様のお陰であると思っております。

デジハリ大学院入学当時の2007年、全員必須だったアクティブラーニングという言葉に
大変関心があったと共に、具体的にはそれはなんぞや? という気持ちを持っておりました。
当時は、同窓の仲間も同じ気持ちを持っていて、もやもやとした気持ちだったのを覚えております。
そこから10年経ち、なるほど、あの時のもやもやはこういうことだったのか、と理解できた気がいたします。

それは、

何か具体的な手法やノウハウの習得が目的ではなく、
他者とのつながりと体験を経ることによる実践的な気づきなのだと思えたのです。
それを行うことで、主体的に学修を行うアクティブ・ラーナーを育成するということになるのだと考えております。

現在、アクティブ・ラーニングは教育現場に急速に広がってきております。
その中で、教育現場のみならず、企業においても、そのニーズは強く求められてきております。

働き方改革、テレワークなど、仕事に対しての向き合い方が変わってきているためでしょう。
時代が変われば、環境も変わる。
そして、価値観やライフスタイルも、10年ごと、いやそれ以上に短い期間に変わると言っても過言ではないのだと思います。

昔は、24時間働けますか? が当たり前であったのに、
現在では、24時間働けば、『超』が付くくらいのブラック企業と言われる時代です。

社会全体が一律で求める幸せのあり方から、
バブル崩壊、金融破綻、大震災などを経て、
個々人の幸せのあり方を求められる時代となってきたのだと思います。

そして、社会において、個々人で働くあり方を
「主体的に考え、行動に移す力」
が求められてきたのだと言えると思います。

定年60歳でセカンドライフを迎え、安定した老後を迎えるために仕事をする、と言った理想が、
今では65歳定年が当たり前、老後の心配も多々ある時代に急速に変わったのです。

団塊世代がそのような状況ですので、現役世代の社会人は、
ますます、今までの《方程式》が当てはまらなくなってきたのです。

さあ、困った、どうすれば自分の人生をしっかりと歩んでいけるのか。

そこにアクティブ・ラーニングの概念が社会に必要になってきたと思っております。

私たちは、
如何に100点を取り、優秀であることを求められてきたか?
それが《絶対》であると教え込められてきたか?

裏を返せば、
点数が取れなかった人間は、果たして、ダメな人間なのか?

世の中の当たり前が本当に当たり前なのか? が問われていると思います。
苫野一徳さんの本では、「一般化の罠」という言葉がありましたが、
その言葉は、これを指し示しているものと考えます。

「点数が高い人間の方が素晴らしいか?」

小生は、そうは思いません。

なぜなら、点数に捉われない人でも、心を輝かせている人が多くいるからです。

逆に、成績が優秀な方が、心が輝いているか? と言われると
一概にそうではないのでは? と思えてなりません。

勿論、しっかりと活動されている方々も沢山おりますが、
素晴らしいと言われる政治家も、ご自身のスタッフを罵倒したり、
有名企業に勤めた若い方も、長時間労働を強いられた末に、自死を選んでしまったり。

私たちが得ている教育とは、一体なんなのか。
このようなニュースを垣間見るたびに、よく考えさせられます。

小生も、大学受験に失敗した18歳は、本気で自死を考えました。
親不孝で、学校にも期待を裏切ってしまい、なんてダメな自分なんだと。

でも、今だからこそ、言えることは、
あの時の自分は素晴らしかったということなんです。
そう思わせたのは、
当時の学校と家庭の
他人の目を比較する「唯ならぬ空気感」だったのだと思うのです。

これからの社会及び教育において、
100点はあくまで一つの指標であって、
そこに捉われない視点や発想が必要なんだと強く感じているのです。

(続く)
>(2):https://coneyshun.blogspot.jp/2018/01/blog-post_6.html