アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(1)

アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(1)

謹んで新年ご挨拶申し上げます。
昨年も多くの皆様にお世話になりました。
本年が皆様に於かれまして、健やかで笑顔溢れる年となりますことを切にお祈り申し上げます。

昨年は、京都、大阪、兵庫、広島、鹿児島など、多くの各地の方々とお会いさせていただきました。

小生は、映画監督と教育という活動をさせていただいているので、
ジャンルを越えて、様々な方々とお会いさせていただき、
対話をさせていただき、体験に基づく学びを授かっていることが
何より幸せだなと感じております。

学びというのは、体験に基づく感謝のバトンタッチであると思っております。
自分が得た気持ちを如何に、誰かのために成長させ、
それをおすそ分けしていくことで、新たな気づきを授かる、そんな風に思っております。

そんな思いを沢山蓄えていたこの半年、
本年公開予定の「あまのがわ」の撮影にドップリだったため、
ブログもすっかりご無沙汰しており、大変失礼を致しました。

そこで、本年第一回目の投稿は、
アクティブ・ラーニングと社会の関係を綴りたいと思います。

おかげさまで、アクティブ・ラーニングの問い合わせも沢山いただくこととなりました。
これもデジハリ大学院時代にきっかけをいただいた羽根拓也先生、及び、
全国の素晴らしいアクティブ・ラーナーの皆様のお陰であると思っております。

デジハリ大学院入学当時の2007年、全員必須だったアクティブラーニングという言葉に
大変関心があったと共に、具体的にはそれはなんぞや? という気持ちを持っておりました。
当時は、同窓の仲間も同じ気持ちを持っていて、もやもやとした気持ちだったのを覚えております。
そこから10年経ち、なるほど、あの時のもやもやはこういうことだったのか、と理解できた気がいたします。

それは、

何か具体的な手法やノウハウの習得が目的ではなく、
他者とのつながりと体験を経ることによる実践的な気づきなのだと思えたのです。
それを行うことで、主体的に学修を行うアクティブ・ラーナーを育成するということになるのだと考えております。

現在、アクティブ・ラーニングは教育現場に急速に広がってきております。
その中で、教育現場のみならず、企業においても、そのニーズは強く求められてきております。

働き方改革、テレワークなど、仕事に対しての向き合い方が変わってきているためでしょう。
時代が変われば、環境も変わる。
そして、価値観やライフスタイルも、10年ごと、いやそれ以上に短い期間に変わると言っても過言ではないのだと思います。

昔は、24時間働けますか? が当たり前であったのに、
現在では、24時間働けば、『超』が付くくらいのブラック企業と言われる時代です。

社会全体が一律で求める幸せのあり方から、
バブル崩壊、金融破綻、大震災などを経て、
個々人の幸せのあり方を求められる時代となってきたのだと思います。

そして、社会において、個々人で働くあり方を
「主体的に考え、行動に移す力」
が求められてきたのだと言えると思います。

定年60歳でセカンドライフを迎え、安定した老後を迎えるために仕事をする、と言った理想が、
今では65歳定年が当たり前、老後の心配も多々ある時代に急速に変わったのです。

団塊世代がそのような状況ですので、現役世代の社会人は、
ますます、今までの《方程式》が当てはまらなくなってきたのです。

さあ、困った、どうすれば自分の人生をしっかりと歩んでいけるのか。

そこにアクティブ・ラーニングの概念が社会に必要になってきたと思っております。

私たちは、
如何に100点を取り、優秀であることを求められてきたか?
それが《絶対》であると教え込められてきたか?

裏を返せば、
点数が取れなかった人間は、果たして、ダメな人間なのか?

世の中の当たり前が本当に当たり前なのか? が問われていると思います。
苫野一徳さんの本では、「一般化の罠」という言葉がありましたが、
その言葉は、これを指し示しているものと考えます。

「点数が高い人間の方が素晴らしいか?」

小生は、そうは思いません。

なぜなら、点数に捉われない人でも、心を輝かせている人が多くいるからです。

逆に、成績が優秀な方が、心が輝いているか? と言われると
一概にそうではないのでは? と思えてなりません。

勿論、しっかりと活動されている方々も沢山おりますが、
素晴らしいと言われる政治家も、ご自身のスタッフを罵倒したり、
有名企業に勤めた若い方も、長時間労働を強いられた末に、自死を選んでしまったり。

私たちが得ている教育とは、一体なんなのか。
このようなニュースを垣間見るたびに、よく考えさせられます。

小生も、大学受験に失敗した18歳は、本気で自死を考えました。
親不孝で、学校にも期待を裏切ってしまい、なんてダメな自分なんだと。

でも、今だからこそ、言えることは、
あの時の自分は素晴らしかったということなんです。
そう思わせたのは、
当時の学校と家庭の
他人の目を比較する「唯ならぬ空気感」だったのだと思うのです。

これからの社会及び教育において、
100点はあくまで一つの指標であって、
そこに捉われない視点や発想が必要なんだと強く感じているのです。

(続く)
>(2):https://coneyshun.blogspot.jp/2018/01/blog-post_6.html

coney

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