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WordPress へようこそ。これは最初の投稿です。編集もしくは削除してブログを始めてください !
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こんばんは。
皆様、如何お過ごしでしょうか。
常々私は、日本の教育に対しての疑問を持ちながら、
アクティブ・ラーニングを中心とした主体的な学習に対しての関心を持ち、実践しております。
それは自分が幼少期から1つ目の大学院まで受けてきた授業があまりに息苦しく
なんのために学んでいるのかを疑問に思いながら、
自分の意志や感情を押し殺している大人や教員がたくさんいたからです。
教育が本当に子供たちに有益なのか、
逆に子供たちの才能を殺していることになるのではないか?
ということなのです。
そんな教育を経た大人たちが、今どうなっているか。
自分が優位に立つことを考え、相手を見比べ自分を評価し、
自分らしさを失っている大人が多いのではないでしょうか。
社会人として働いている中で、鬱になり、自殺をしてしまう人も少なくありません。
ハラスメントが取り出されれる時代となりましたが、
それまではそのようなことが蔓延していて、当たり前にまかり通っていて、
ここ数年で、声高らかに注目されていく。
今までのそれで成り立っていた社会は、本当によかったのかということです。
その上で、大切なのは、自分らしさではないでしょうか。
生きる上で、これが自分らしいと思えるかどうかで、
仕事との関わり、社会との関わり、家族や仲間との関わりが変わってくるのではないでしょうか。
私たちは決して一人では生きていけません。
そんなシンプルなことを社会人の方々が、どれだけ毎日考えているでしょうか。
都会で言えば、満員電車やエレベーターなど見れば一目瞭然です。
我先にと人を押しのけて進んでいく、自分本位の社会の象徴だと思っております。
そう考えると、人生という長い物語を歩む上で、
私たちは学校で何を得て社会に出ているのでしょうか?
これからの教育に必要なのは、小学校に英語を取り入れることではありません。
プログラミングができることではありません。
時代が目まぐるしく変わる中で、答えがないことを自分なりに解釈していく、
そこには、人生全体を俯瞰して、設計し、デザインしていく力が必要なのだと思っております。
自分がどうして生きていて、どこに向かっているのか?
学習とは、100点を取りなさい、お利口になりなさいということを強いられますが、
それは生きる上での本質的な生活をするというがむしゃらな行為に対しての抑圧に思えてならないのです。
「自分らしく生きていく」
私たちはいつ死ぬか分かりません。
それは東日本大震災、熊本大震災などで改めて感じさせられることになったと思います。
思い返せば、第二次世界大戦、それ以前もいろいろな対立や天災などで人間は生きることへの大変さと、生かされていることへの感謝をつないでいったと感じております。
経済が豊かになればなるほど、私たちは自分が全てである、自分の世界を中心に物事を捉えがちになってしまう。
そのことは、自分と社会との隔たりを自らで作っていることになるのだと思っております。
自分とは違う立場に置かれ、違う感情を持つ方がいる。
昨今ダイバシティが叫ばれている中で、私たちは社会とのつながりが広がっている時代において、
自分という個の存在をいかに社会に埋没させず、
個と個が手を携えたって、異色なものを掛け算させていけるかが重要になってきたと感じております。
自分の持っているものを如何に、開放していけるか、
他者と比べなくていい、社会の枠にはまらなくていい、
自分らしさを開放できる自己開放感の時代に来ているのだと思います。
そのためには、
過去の自分の忘れていることを如何に救い出していけるか
体験した出来事をプラスに見直していけるか、
それを未来とどう結びつけていけるか
が大切だと思います。
自分は才能の塊である、私たちは個々のそれぞれの見えない資産を持っている、
それがいつしか、大人になってしがらみや世間体に埋もれてしまっている。
その皮を剥がしていく行為こそが、
自分らしさと自己有用感の獲得につながると考えております。
みなさんは、今、どのようにお仕事をされていますか?
どのような人と一緒に、どのような会話をされていますでしょうか。
小生は、いろいろな課題や難題を試行錯誤しながらですが、
世代や業種を越えて、様々なプロジェクトをご一緒させていただいております。
思うところ、現代社会は、様々な業種の方との横連携が必要で、
世代を越えて協創をする姿勢が大切な中で、
自分の知っている分野だけを突出させても、
通用しない時代になったのだと思っています。
人間完璧な人はいないと思います。
その都度、いろいろな失敗を経て、人は成長を遂げていきます。
情報が乱立する時代の中で、人間関係は、レゴブロックのように
立体的で、かつ、正解が一つには決まりません。
正解が一つではないということは、他人よりも秀でてる部分だけを主張するのではなく、
自分に足りないものが何かを見つめ返せることで、
それを仲間と共に補える協働が生まれて、だから故、
魅力的な創造性が発揮できるのだと思います。
その凸凹を埋める行為として、相互リスペクトが不可欠だと思います。
自分の足りない部分、知らない部分を、素直に認めて、
それを相手に如何に伝えることができるか?
小生自身も足りない部分がたくさんある中で、
都度都度、如何に人間関係をプラスにできるかを考えています。
人間関係も完璧なんてありえません。
完璧でないからこそ、なんとか進んでいくことができる。
それが人間らしいことなんだろうな、と
昨今そんなことを考えているわけです。
そう思うと、
学生さんでいえば、すべてのことをオールマイティにできなくてもいい、
逆に欠けている方が素晴らしいじゃないか。とか。
マイナス部分だけを捉えるのではなく、
如何に前回から自分の苦手を向上ができたのかとか。
個々人個々人の成長度合いは、絶対評価では計れないものがあるのだと思っています。
前回、小生の学生時代は、他人の目を気にするただならぬ空気感が漂い、閉塞感に苦しまれた、と書きました。
他人の目を気にしながら、物事を発言する(しなければいけない)。
個性を出さずに、その場所の流れに任せて行動する(しなければならない)。
ここには、日本人の風土に根付く「世間」という考えがあると言えるのではないでしょうか。
無言の意識で相手の気持ちを察して、行動をする。
昨今の流行り言葉の「忖度」という言葉がありますね、まさにあれと近しいものです。
大震災の時に、日本人が列車に列を成して並ぶ姿はその象徴でもあったと思います。
あれは、他人と足並みを乱してはいけないという
世間という意識が日本人に根付いているからだと思います。
このことを考えているうちに5年前に読んだ劇作家の鴻上尚史さんの
『「空気」と「世間」』という本のことを思い返しました。
世間というのは、自分に関係のある世界のことを指します。
電車の列を並ぶ光景、大事発生時でも暴動が起きにくい日本人というのは、
個人のあり方が、他の個人との繋がりの関係性の中で
築かれているコミュニティということなのです。
鴻上さんの本では、
例えば、仲間が昼食にラーメンを食べたいというと他の人も同調してラーメンと行ったり、
人前での自己紹介で故郷の話をすると、二番目以降の人も故郷の話をしたり、
という例を出されておりました。
これを「所与性」と言い、「世間」は、自分が選ぶものではなく、あらかじめ与えられている運命的なものということになるのです。
世間が流動化すると、「空気」となり、よく耳にする「空気を読め」、あの空気になるのです。
世間というのは、他者との関係性では強固ではあるものの、個は埋没し、ある種の閉塞感を生み出してしまうのだと考えます。
高度経済成長、終身雇用、縦型組織の仕組みが一般であった日本では、そのあり方は適応していたのだと思います。
例えば、会社では上司の顔色を伺い、アフター5では、呑み会に付き合わされ、家庭では愚痴をこぼすという、生き方はその代表的なものと言えるのでしょう。
それが時代が変わり、多様性が求められるようになった90年代からは、
抑圧されてきた世間に嫌悪感を抱いた人間が続々と出現してきたのです。
鴻上さんは、世間は
①贈与・互報の関係、②長幼の序、③共通の時間意識、④差別的で排他的、⑤神秘性
から成り立っていると話しております。
ご興味がありましたら、ぜひ『「空気」と「世間」』をご一読いただくと良いと思います。
日本とは逆に世間の考え方が薄いのが欧米のあり方で、
「社会」=自分に関係のない世界がそれだと表現しています。
歴史学者の阿部謹也さん曰く、社会=societyという言葉ができたのは、明治10年頃だそうですので、富国強兵・西洋化が急速に進む中で生まれた概念、それまでは、社会という概念は日本には存在しなかったようです。
例でいうと、日本人は網棚に置かれた荷物を盗まない、諸外国なら目を離した瞬間に盗まれているというのも、網棚の荷物を自分とは関係のない社会と捉えている現れだということになるのです。
また、欧米の人がきっぱりと「NO」をいうのも、自分が向き合っているのは、そこにいる人間ではなく、唯一契約をしている神という存在があるからだからだということなのです。
話を教育に戻すと、小生が自死を考えるまで至った今までの大学受験もまさにこの世間の考えによるものなのだと思えるのです。
他人と点数のみを争い、その勝ち負けで自分を評価せざるを得ない。
決して、その評価が悪いと言っている訳ではありません。
その点数に個性やプロセスと言った標準化されない自己評価の可視化が必要だと小生は考えているのです。
先ほども申した通り、世間というのは自分が選ぶのではなく与えられるもの、それに意識をしすぎた日本人がいて、それが現代では、通用がしなくなってきたのです。
家庭における親子問題も、学校におけるいじめの問題もここに一つの問題の要因があるのではないでしょうか。
親の理屈を子供に押し付ける、教師の考えを一方的に生徒に教え込む、その考えが子供を苦しめ、自己否定感を生み出しているのだと思うのです。
決められたたった一つの「正解」を闇雲に求めるのではなく、個々人が納得できる「納得解」を如何に表現していけるかが、教育現場、そして家庭環境にも必要になったのです。
昨年は、京都、大阪、兵庫、広島、鹿児島など、多くの各地の方々とお会いさせていただきました。
小生は、映画監督と教育という活動をさせていただいているので、
ジャンルを越えて、様々な方々とお会いさせていただき、
対話をさせていただき、体験に基づく学びを授かっていることが
何より幸せだなと感じております。
学びというのは、体験に基づく感謝のバトンタッチであると思っております。
自分が得た気持ちを如何に、誰かのために成長させ、
それをおすそ分けしていくことで、新たな気づきを授かる、そんな風に思っております。
そんな思いを沢山蓄えていたこの半年、
本年公開予定の「あまのがわ」の撮影にドップリだったため、
ブログもすっかりご無沙汰しており、大変失礼を致しました。
そこで、本年第一回目の投稿は、
アクティブ・ラーニングと社会の関係を綴りたいと思います。
おかげさまで、アクティブ・ラーニングの問い合わせも沢山いただくこととなりました。
これもデジハリ大学院時代にきっかけをいただいた羽根拓也先生、及び、
全国の素晴らしいアクティブ・ラーナーの皆様のお陰であると思っております。
デジハリ大学院入学当時の2007年、全員必須だったアクティブラーニングという言葉に
大変関心があったと共に、具体的にはそれはなんぞや? という気持ちを持っておりました。
当時は、同窓の仲間も同じ気持ちを持っていて、もやもやとした気持ちだったのを覚えております。
そこから10年経ち、なるほど、あの時のもやもやはこういうことだったのか、と理解できた気がいたします。
それは、
何か具体的な手法やノウハウの習得が目的ではなく、
他者とのつながりと体験を経ることによる実践的な気づきなのだと思えたのです。
それを行うことで、主体的に学修を行うアクティブ・ラーナーを育成するということになるのだと考えております。
現在、アクティブ・ラーニングは教育現場に急速に広がってきております。
その中で、教育現場のみならず、企業においても、そのニーズは強く求められてきております。
働き方改革、テレワークなど、仕事に対しての向き合い方が変わってきているためでしょう。
時代が変われば、環境も変わる。
そして、価値観やライフスタイルも、10年ごと、いやそれ以上に短い期間に変わると言っても過言ではないのだと思います。
昔は、24時間働けますか? が当たり前であったのに、
現在では、24時間働けば、『超』が付くくらいのブラック企業と言われる時代です。
社会全体が一律で求める幸せのあり方から、
バブル崩壊、金融破綻、大震災などを経て、
個々人の幸せのあり方を求められる時代となってきたのだと思います。
そして、社会において、個々人で働くあり方を
「主体的に考え、行動に移す力」
が求められてきたのだと言えると思います。
定年60歳でセカンドライフを迎え、安定した老後を迎えるために仕事をする、と言った理想が、
今では65歳定年が当たり前、老後の心配も多々ある時代に急速に変わったのです。
団塊世代がそのような状況ですので、現役世代の社会人は、
ますます、今までの《方程式》が当てはまらなくなってきたのです。
さあ、困った、どうすれば自分の人生をしっかりと歩んでいけるのか。
そこにアクティブ・ラーニングの概念が社会に必要になってきたと思っております。
私たちは、
如何に100点を取り、優秀であることを求められてきたか?
それが《絶対》であると教え込められてきたか?
裏を返せば、
点数が取れなかった人間は、果たして、ダメな人間なのか?
世の中の当たり前が本当に当たり前なのか? が問われていると思います。
苫野一徳さんの本では、「一般化の罠」という言葉がありましたが、
その言葉は、これを指し示しているものと考えます。
「点数が高い人間の方が素晴らしいか?」
小生は、そうは思いません。
なぜなら、点数に捉われない人でも、心を輝かせている人が多くいるからです。
逆に、成績が優秀な方が、心が輝いているか? と言われると
一概にそうではないのでは? と思えてなりません。
勿論、しっかりと活動されている方々も沢山おりますが、
素晴らしいと言われる政治家も、ご自身のスタッフを罵倒したり、
有名企業に勤めた若い方も、長時間労働を強いられた末に、自死を選んでしまったり。
私たちが得ている教育とは、一体なんなのか。
このようなニュースを垣間見るたびに、よく考えさせられます。
小生も、大学受験に失敗した18歳は、本気で自死を考えました。
親不孝で、学校にも期待を裏切ってしまい、なんてダメな自分なんだと。
でも、今だからこそ、言えることは、
あの時の自分は素晴らしかったということなんです。
そう思わせたのは、
当時の学校と家庭の
他人の目を比較する「唯ならぬ空気感」だったのだと思うのです。
これからの社会及び教育において、
100点はあくまで一つの指標であって、
そこに捉われない視点や発想が必要なんだと強く感じているのです。
(続く)
>(2):https://coneyshun.blogspot.jp/2018/01/blog-post_6.html