映画「ノー・ヴォイス」がDVDとして発売されます

おかげさまで、2019年7月3日に小生の初監督作品「ノー・ヴォイス」が
劇場公開から6年越しにDVD化されます。
これを記念しまして、現在お名前や愛犬・愛猫の画像を掲載できるクラウドファンディングを開催しております。
5月22日締め切りになります。
https://camp-fire.jp/projects/view/156661

この作品は、2010年から4年かけて制作した映画です。
東日本大震災を経て、何度も企画が進みそうで、いろいろな事情で頓挫をして、
最終的には、自分で資金調達をすることになり、
それと並行して、仲間たちのサポートを得ながら、各地で活動されている方々の取材を
重ねていきました。自分のことを話しますと、
幼少期は厳しい父と母に育てられ、勉強ばかりをしていました。
人とのコミュニケーションがとても苦手で、
一人で物思いにふけっていたり、妄想をするのが大好きでした。よくいじめられましたが、そのはけ口を学校にも家庭にも話すことができず、
テレビのドラマの世界に没頭して、現実逃避をしておりました。

人が怖い、家に帰ると行き場がない、勉強しか自分の人生がない
そんな青年期の果てに18歳の時に自殺を考えました。母親はいつも、またそんなことを言って自分を悲劇の主人公にしてということばかりをいう人間でした。
それをずっと言われ続け、本当に辛かったです。
父からは態度がなっていないと深夜まで叱られ続け、
いまだに両親にされた心の傷は深く残っています。ただ、映画の道に進み、学歴社会から外れた中で、
様々な人と出会い、いろんな属性の方と知り合えたことは、
22歳の自分にとってとても大きな財産となりました。「自分の世界があまりに狭すぎる」20代は社会のこともわからなければ、他人の気持ちも思いやれない
とても身勝手な自分でした。
たくさん怒られ、たくさん騙され、たくさん不自由を強いられましたが、
少しずつ、その逆境に立ち向かう気持ちや人間再生を行なっていきました。そう、この「ノー・ヴォイス」というのは、自分が幼少期に大切にしていた
自然に対しての畏敬や心の優しさを取り戻していく旅でもあったのです。20代の自分は、売れる映画監督になりたい、有名な存在になりたいと
野心がたくさんありましたが、自分だからできることはなんなのか?を福島の南相馬での経験を経て、考えるようになりました。岩手の釜石に出向き、昔懐かしかった風景が無くなり、
町にはハエが飛び回り、コンビニには商品がほとんどなく、
全壊した軒並みを回っていく度に、
自分がこれからやるべきことは、
青年期におかしいと感じていた社会に対して、学校に対して、家庭に対して思っていた
理不尽さ、不自由さを作品で表現していきたい。

それは、自分だけのものではなく、困っている人たちや苦しんでいる動物たちの支えになって
社会をプラスにしていく活動をしていきたい。これは、今大切にしている仲間たちと共有している言葉ですが、
『For Youのために、For Meをする。そして、For Usになる』
大切なことは、For Meばかりではダメで、自分は誰の為に何がしたいか、
誰の為にここに存在しているのか、その志を持つことが大切だと思っています。アフリカの諺にこのような言葉があります。『早く行きたいなら一人で行け! 遠くへ行きたいならみんなで行け!』自分は一人で勉強を頑張り、一人で勝ち残ることを青年期やってきましたが、
今は素晴らしい仲間たちと手を携え、皆が各々違っているからできるアクションを
協働しながら、活動しています。そのキッカケとなる小生の初監督作品「ノー・ヴォイス」を皆様とDVDとして
輩出ができますことをとても幸せに思います。

生徒という呼び名をアップグレードさせよ!

お陰様で、小生の初の小説「ノー・ヴォイス」が先週発売されました。
劇場公開から6年経ち、この度晴れて小説となりました。
帯には和光市長の応援メッセージ、末尾には対談が掲載されております。

ぜひ、本作をご一読いただきたいと思っております。
 AMAZON:https://amzn.to/2up2sFT

この作品を作るために保健所やアニマルシェルター、獣医師の先生方など、
多数の方々を取材しました。
自分の知らないペット業界の背景も沢山学ぶこととなりました。

この作品に携わるまでは犬の数え方は一匹、二匹だと思っていましたが、
ある時に指摘されました。
「一頭、二頭です」と。

人間が抱えられない大きさの動物や、訓練された盲導犬などは、
人間の生活に密着度が高い存在は頭で数えるとのことでした。
「多頭飼い」に見られるように「頭」で数えると良いと思いますとのご意見。

そんなこと考えたこともありませんでしたが、なるほどなーと考えさせられる経験でした。
(それでも猫は一匹って数えるよなと考えることがありますが^^)

そんな話と繋がっているようで、全く違う話ですが、
学校における「生徒」という表現に関しても、学校教育法で

小学生は児童、中学生・高校生は生徒、大学生は学生と分けられているそうだが、
「徒」は「従う」という意味と同じとのこと。
小学生までは、児童で良いと思うのだが、
小生は、中学生からは、「学生」と呼び方を変えたいと思っている。

生徒と表現している時点で、学校のルールや指導に従う存在という意味が
無意識に定着してしまっている感覚になる。

「勉強する」から「学習する」、
「STUDY」から「LEARN」へと変わる現代の教育の在り方において、

「生徒」という呼び名も「学生」や「ラーナー」
はたまた「HERO」とか「PIONEER」
と斬新に変えるような発想が出てきてもよいのではと感じています。

「うちの学校のHEROは、画期的な探究をしているんですよ」
みたいな会話が出たらワクワクしませんか?^^

当たり前の感覚を違った見方で検討してみる習慣というのは、
自分の視点を磨き、社会に対しても新しい提言や実験を生み出すきっかけになると感じます。

身近な当たり前のちょっとした違和感を、身近な人と考えてみては如何でしょうか。

映画「あまのがわ」2/9に一般公開いたします!

みなさん、こんばんは。
久々の投稿となり、恐れ入ります。

お陰様で、多くの方々にご協力を賜りました
映画「あまのがわ」ですが、2/9より一般公開となります。

大変多くの方々に支えられてここまで来ることができましたこと、
心より感謝申し上げます。

自ら発起し、0からのスタート、手探りからの試行錯誤を繰り返して、
約5年かかりました。
その分、最先端のテクノロジーや鹿児島の魅力、そして、平成の元号が変わる現在に必要な力、
自分自身視座を広げて制作に向き合ったのが、この「あまのがわ」でした。

昨今も子供が大人の都合や事情で虐げられる悲惨な事件が飛び込んでいくたびに、
日本が今、何を大切にしているんだと頭を悩まされます。

大人が悩み、苦悩するハゲ口が子供に向かってしまう。
社会が向き合うのは、子供ではなく、大人のあり方であり、
大人が如何に自分の心を広げられるかだと思っております。

小生が尊敬する麹町中学校の工藤校長先生と昨年お会いした際に、
「剥ぎ捨てる」という言葉を話されていました。
20世紀の成長社会に染み付いてしまった競争の原理や自分だけがよければ良いという概念を如何に大人が剥ぎ捨てられるか、が求められていると思います。

日本には、互助会や寺子屋のような、隣同士であるからこそ、家族のように親身になって支え合う精神が培われています。
現代に近くに連れて失われつつある日本人独特の精神は、テクノロジーが発展する現代にこそ、求められているものだと思います。
人間だからこそ、日本人だからこそ、自分だからこそ。

この「だからこそ」の精神を描きたいと思ったのが、「あまのがわ」です。

屋久島という舞台になったのも偶然であり、必然だと思っております。
自分の意志は心の中で願っていることが、外の因子により自然と惹きつけられる。

私たちは、自分が中心と考えがちですが、そんなことはありません。
自分という存在は全て外の力によって支えられているのです。
だからこそ、自分が誰かの外の力になれるよう成長をしていく。
それが「生きる」ということなんだと思っております。

まだまだ至らないことばかりの小生ですが、
その自分がふんだんに「生きる」を楽しんで、
ですが、制作には生きるとは真逆な位に苦しんで、もがいて作った本作を
ぜひ、多くの皆様にご覧いただきたいと思っております。

そして、この作品を愛してくださった方々は、
ぜひ、周りの方々にも本作をご紹介いただけましたら幸甚です。

◉劇場公開情報:https://amanogawa-movie.com/theater/

自己開放感〜本当の自分であるために自分を開放していくこと〜

こんばんは。
皆様、如何お過ごしでしょうか。

常々私は、日本の教育に対しての疑問を持ちながら、
アクティブ・ラーニングを中心とした主体的な学習に対しての関心を持ち、実践しております。

それは自分が幼少期から1つ目の大学院まで受けてきた授業があまりに息苦しく
なんのために学んでいるのかを疑問に思いながら、
自分の意志や感情を押し殺している大人や教員がたくさんいたからです。

教育が本当に子供たちに有益なのか、
逆に子供たちの才能を殺していることになるのではないか?
ということなのです。

そんな教育を経た大人たちが、今どうなっているか。
自分が優位に立つことを考え、相手を見比べ自分を評価し、
自分らしさを失っている大人が多いのではないでしょうか。

社会人として働いている中で、鬱になり、自殺をしてしまう人も少なくありません。
ハラスメントが取り出されれる時代となりましたが、
それまではそのようなことが蔓延していて、当たり前にまかり通っていて、
ここ数年で、声高らかに注目されていく。

今までのそれで成り立っていた社会は、本当によかったのかということです。

その上で、大切なのは、自分らしさではないでしょうか。
生きる上で、これが自分らしいと思えるかどうかで、
仕事との関わり、社会との関わり、家族や仲間との関わりが変わってくるのではないでしょうか。

私たちは決して一人では生きていけません。
そんなシンプルなことを社会人の方々が、どれだけ毎日考えているでしょうか。

都会で言えば、満員電車やエレベーターなど見れば一目瞭然です。
我先にと人を押しのけて進んでいく、自分本位の社会の象徴だと思っております。

そう考えると、人生という長い物語を歩む上で、
私たちは学校で何を得て社会に出ているのでしょうか?

これからの教育に必要なのは、小学校に英語を取り入れることではありません。
プログラミングができることではありません。

時代が目まぐるしく変わる中で、答えがないことを自分なりに解釈していく、
そこには、人生全体を俯瞰して、設計し、デザインしていく力が必要なのだと思っております。

自分がどうして生きていて、どこに向かっているのか?

学習とは、100点を取りなさい、お利口になりなさいということを強いられますが、
それは生きる上での本質的な生活をするというがむしゃらな行為に対しての抑圧に思えてならないのです。

「自分らしく生きていく」

私たちはいつ死ぬか分かりません。
それは東日本大震災、熊本大震災などで改めて感じさせられることになったと思います。

思い返せば、第二次世界大戦、それ以前もいろいろな対立や天災などで人間は生きることへの大変さと、生かされていることへの感謝をつないでいったと感じております。

経済が豊かになればなるほど、私たちは自分が全てである、自分の世界を中心に物事を捉えがちになってしまう。
そのことは、自分と社会との隔たりを自らで作っていることになるのだと思っております。

自分とは違う立場に置かれ、違う感情を持つ方がいる。
昨今ダイバシティが叫ばれている中で、私たちは社会とのつながりが広がっている時代において、
自分という個の存在をいかに社会に埋没させず、
個と個が手を携えたって、異色なものを掛け算させていけるかが重要になってきたと感じております。

自分の持っているものを如何に、開放していけるか、
他者と比べなくていい、社会の枠にはまらなくていい、
自分らしさを開放できる自己開放感の時代に来ているのだと思います。

そのためには、
過去の自分の忘れていることを如何に救い出していけるか
体験した出来事をプラスに見直していけるか、
それを未来とどう結びつけていけるか
が大切だと思います。

自分は才能の塊である、私たちは個々のそれぞれの見えない資産を持っている、
それがいつしか、大人になってしがらみや世間体に埋もれてしまっている。
その皮を剥がしていく行為こそが、
自分らしさと自己有用感の獲得につながると考えております。

できないことをできないと言える勇気

いつもブログをご覧くださり、ありがとうございます。
アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(2)の続きの
アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(3)は近く書かせていただきます。

みなさんは、今、どのようにお仕事をされていますか?
どのような人と一緒に、どのような会話をされていますでしょうか。

小生は、いろいろな課題や難題を試行錯誤しながらですが、
世代や業種を越えて、様々なプロジェクトをご一緒させていただいております。

思うところ、現代社会は、様々な業種の方との横連携が必要で、
世代を越えて協創をする姿勢が大切な中で、
自分の知っている分野だけを突出させても、
通用しない時代になったのだと思っています。

人間完璧な人はいないと思います。
その都度、いろいろな失敗を経て、人は成長を遂げていきます。

情報が乱立する時代の中で、人間関係は、レゴブロックのように
立体的で、かつ、正解が一つには決まりません。

正解が一つではないということは、他人よりも秀でてる部分だけを主張するのではなく、
自分に足りないものが何かを見つめ返せることで、
それを仲間と共に補える協働が生まれて、だから故、
魅力的な創造性が発揮できるのだと思います。

その凸凹を埋める行為として、相互リスペクトが不可欠だと思います。
自分の足りない部分、知らない部分を、素直に認めて、
それを相手に如何に伝えることができるか?

小生自身も足りない部分がたくさんある中で、
都度都度、如何に人間関係をプラスにできるかを考えています。
人間関係も完璧なんてありえません。
完璧でないからこそ、なんとか進んでいくことができる。
それが人間らしいことなんだろうな、と
昨今そんなことを考えているわけです。

そう思うと、
学生さんでいえば、すべてのことをオールマイティにできなくてもいい、
逆に欠けている方が素晴らしいじゃないか。とか。

マイナス部分だけを捉えるのではなく、
如何に前回から自分の苦手を向上ができたのかとか。

個々人個々人の成長度合いは、絶対評価では計れないものがあるのだと思っています。

アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(2) 〜ALと「世間」との関係〜

アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(1):https://coneyshun.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html

前回、小生の学生時代は、他人の目を気にするただならぬ空気感が漂い、閉塞感に苦しまれた、と書きました。

他人の目を気にしながら、物事を発言する(しなければいけない)。
個性を出さずに、その場所の流れに任せて行動する(しなければならない)。

ここには、日本人の風土に根付く「世間」という考えがあると言えるのではないでしょうか。
無言の意識で相手の気持ちを察して、行動をする。
昨今の流行り言葉の「忖度」という言葉がありますね、まさにあれと近しいものです。

大震災の時に、日本人が列車に列を成して並ぶ姿はその象徴でもあったと思います。
あれは、他人と足並みを乱してはいけないという
世間という意識が日本人に根付いているからだと思います。

このことを考えているうちに5年前に読んだ劇作家の鴻上尚史さんの
『「空気」と「世間」』という本のことを思い返しました。

世間というのは、自分に関係のある世界のことを指します。

電車の列を並ぶ光景、大事発生時でも暴動が起きにくい日本人というのは、
個人のあり方が、他の個人との繋がりの関係性の中で
築かれているコミュニティということなのです。

鴻上さんの本では、

例えば、仲間が昼食にラーメンを食べたいというと他の人も同調してラーメンと行ったり、
人前での自己紹介で故郷の話をすると、二番目以降の人も故郷の話をしたり、
という例を出されておりました。

これを「所与性」と言い、「世間」は、自分が選ぶものではなく、あらかじめ与えられている運命的なものということになるのです。
世間が流動化すると、「空気」となり、よく耳にする「空気を読め」、あの空気になるのです。

世間というのは、他者との関係性では強固ではあるものの、個は埋没し、ある種の閉塞感を生み出してしまうのだと考えます。
高度経済成長、終身雇用、縦型組織の仕組みが一般であった日本では、そのあり方は適応していたのだと思います。
例えば、会社では上司の顔色を伺い、アフター5では、呑み会に付き合わされ、家庭では愚痴をこぼすという、生き方はその代表的なものと言えるのでしょう。

それが時代が変わり、多様性が求められるようになった90年代からは、
抑圧されてきた世間に嫌悪感を抱いた人間が続々と出現してきたのです。

鴻上さんは、世間は
①贈与・互報の関係、②長幼の序、③共通の時間意識、④差別的で排他的、⑤神秘性
から成り立っていると話しております。
ご興味がありましたら、ぜひ『「空気」と「世間」』をご一読いただくと良いと思います。

日本とは逆に世間の考え方が薄いのが欧米のあり方で、
「社会」=自分に関係のない世界がそれだと表現しています。

歴史学者の阿部謹也さん曰く、社会=societyという言葉ができたのは、明治10年頃だそうですので、富国強兵・西洋化が急速に進む中で生まれた概念、それまでは、社会という概念は日本には存在しなかったようです。

例でいうと、日本人は網棚に置かれた荷物を盗まない、諸外国なら目を離した瞬間に盗まれているというのも、網棚の荷物を自分とは関係のない社会と捉えている現れだということになるのです。

また、欧米の人がきっぱりと「NO」をいうのも、自分が向き合っているのは、そこにいる人間ではなく、唯一契約をしている神という存在があるからだからだということなのです。

話を教育に戻すと、小生が自死を考えるまで至った今までの大学受験もまさにこの世間の考えによるものなのだと思えるのです。
他人と点数のみを争い、その勝ち負けで自分を評価せざるを得ない。

決して、その評価が悪いと言っている訳ではありません。

その点数に個性やプロセスと言った標準化されない自己評価の可視化が必要だと小生は考えているのです。

先ほども申した通り、世間というのは自分が選ぶのではなく与えられるもの、それに意識をしすぎた日本人がいて、それが現代では、通用がしなくなってきたのです。

そして、過剰に世間にへりくだり、抑圧や否定を受け入れることに限界がきているのだと思うのです。

家庭における親子問題も、学校におけるいじめの問題もここに一つの問題の要因があるのではないでしょうか。
親の理屈を子供に押し付ける、教師の考えを一方的に生徒に教え込む、その考えが子供を苦しめ、自己否定感を生み出しているのだと思うのです。

決められたたった一つの「正解」を闇雲に求めるのではなく、個々人が納得できる「納得解」を如何に表現していけるかが、教育現場、そして家庭環境にも必要になったのです。

前回ご紹介した哲学者の苫野一徳さんも「勉強するのは、〈自由〉になるため」と表現しているのも、この世間の考え方に大いに通ずるものと考えています。
この〈自由〉というのは、好き勝手に何をしてもいいということではなく、他者の抑圧に縛られることなく、心を自由にさせる生き方を意味していると小生は捉えております。
そのためには、偏らない知識や発想を身につけ、目の前に課題に立ち向かえるだけの道具を身につけることなんだと思うのです。
そのためには、何かに果敢にチャレンジをする姿勢が不可欠だと考えます。
「失敗することを恐れずに、物事を試して見る。失敗したら改善を行う」
その考えがアクティブ・ラーニングを象る一つの大切な概念だと思っております。
先ほどの鴻上さんも、
「他人に迷惑をかけない人間になれ」ではなく、
「相手がそれを迷惑と感じるかどうか」が大切だと語っています。
「相手を思いやる能力」ではなく「相手とちゃんと交渉ができる能力」が必要である。
これがまさに、現代求められているコンピテンシーなんだと思います。
世間どっぷりだった日本人は、すぐに世間をいう概念から離れることは難しいのでしょう。
そして世間は完全に無くならないと思いでしょうし、世間にも冒頭述べたました通り、日本らしい素晴らしい文化とも言えます。

なので、その閉塞感の世間とうまく交わりながらも、個としての〈自由〉を主張できる存在になるために、「アクティブ・ラーニング」を通じて自分を成長させていくことが大切なのだと思うのです。
(続く)

アクティブ・ラーニングが社会に必要な理由(1)

謹んで新年ご挨拶申し上げます。
昨年も多くの皆様にお世話になりました。
本年が皆様に於かれまして、健やかで笑顔溢れる年となりますことを切にお祈り申し上げます。

昨年は、京都、大阪、兵庫、広島、鹿児島など、多くの各地の方々とお会いさせていただきました。

小生は、映画監督と教育という活動をさせていただいているので、
ジャンルを越えて、様々な方々とお会いさせていただき、
対話をさせていただき、体験に基づく学びを授かっていることが
何より幸せだなと感じております。

学びというのは、体験に基づく感謝のバトンタッチであると思っております。
自分が得た気持ちを如何に、誰かのために成長させ、
それをおすそ分けしていくことで、新たな気づきを授かる、そんな風に思っております。

そんな思いを沢山蓄えていたこの半年、
本年公開予定の「あまのがわ」の撮影にドップリだったため、
ブログもすっかりご無沙汰しており、大変失礼を致しました。

そこで、本年第一回目の投稿は、
アクティブ・ラーニングと社会の関係を綴りたいと思います。

おかげさまで、アクティブ・ラーニングの問い合わせも沢山いただくこととなりました。
これもデジハリ大学院時代にきっかけをいただいた羽根拓也先生、及び、
全国の素晴らしいアクティブ・ラーナーの皆様のお陰であると思っております。

デジハリ大学院入学当時の2007年、全員必須だったアクティブラーニングという言葉に
大変関心があったと共に、具体的にはそれはなんぞや? という気持ちを持っておりました。
当時は、同窓の仲間も同じ気持ちを持っていて、もやもやとした気持ちだったのを覚えております。
そこから10年経ち、なるほど、あの時のもやもやはこういうことだったのか、と理解できた気がいたします。

それは、

何か具体的な手法やノウハウの習得が目的ではなく、
他者とのつながりと体験を経ることによる実践的な気づきなのだと思えたのです。
それを行うことで、主体的に学修を行うアクティブ・ラーナーを育成するということになるのだと考えております。

現在、アクティブ・ラーニングは教育現場に急速に広がってきております。
その中で、教育現場のみならず、企業においても、そのニーズは強く求められてきております。

働き方改革、テレワークなど、仕事に対しての向き合い方が変わってきているためでしょう。
時代が変われば、環境も変わる。
そして、価値観やライフスタイルも、10年ごと、いやそれ以上に短い期間に変わると言っても過言ではないのだと思います。

昔は、24時間働けますか? が当たり前であったのに、
現在では、24時間働けば、『超』が付くくらいのブラック企業と言われる時代です。

社会全体が一律で求める幸せのあり方から、
バブル崩壊、金融破綻、大震災などを経て、
個々人の幸せのあり方を求められる時代となってきたのだと思います。

そして、社会において、個々人で働くあり方を
「主体的に考え、行動に移す力」
が求められてきたのだと言えると思います。

定年60歳でセカンドライフを迎え、安定した老後を迎えるために仕事をする、と言った理想が、
今では65歳定年が当たり前、老後の心配も多々ある時代に急速に変わったのです。

団塊世代がそのような状況ですので、現役世代の社会人は、
ますます、今までの《方程式》が当てはまらなくなってきたのです。

さあ、困った、どうすれば自分の人生をしっかりと歩んでいけるのか。

そこにアクティブ・ラーニングの概念が社会に必要になってきたと思っております。

私たちは、
如何に100点を取り、優秀であることを求められてきたか?
それが《絶対》であると教え込められてきたか?

裏を返せば、
点数が取れなかった人間は、果たして、ダメな人間なのか?

世の中の当たり前が本当に当たり前なのか? が問われていると思います。
苫野一徳さんの本では、「一般化の罠」という言葉がありましたが、
その言葉は、これを指し示しているものと考えます。

「点数が高い人間の方が素晴らしいか?」

小生は、そうは思いません。

なぜなら、点数に捉われない人でも、心を輝かせている人が多くいるからです。

逆に、成績が優秀な方が、心が輝いているか? と言われると
一概にそうではないのでは? と思えてなりません。

勿論、しっかりと活動されている方々も沢山おりますが、
素晴らしいと言われる政治家も、ご自身のスタッフを罵倒したり、
有名企業に勤めた若い方も、長時間労働を強いられた末に、自死を選んでしまったり。

私たちが得ている教育とは、一体なんなのか。
このようなニュースを垣間見るたびに、よく考えさせられます。

小生も、大学受験に失敗した18歳は、本気で自死を考えました。
親不孝で、学校にも期待を裏切ってしまい、なんてダメな自分なんだと。

でも、今だからこそ、言えることは、
あの時の自分は素晴らしかったということなんです。
そう思わせたのは、
当時の学校と家庭の
他人の目を比較する「唯ならぬ空気感」だったのだと思うのです。

これからの社会及び教育において、
100点はあくまで一つの指標であって、
そこに捉われない視点や発想が必要なんだと強く感じているのです。

(続く)
>(2):https://coneyshun.blogspot.jp/2018/01/blog-post_6.html

映画「あまのがわ」間もなくクランクイン

みなさん、こんにちは。
監督の古新です。
2014年より準備しております小生長編映画第二弾「あまのがわ」が
間もなくクランクインとなります。

主演の福地桃子さんは、本作で渋谷に住む女子高生・琴浦史織を演じます。
先日は、ロケ地となる鹿児島市の森市長を訪問させていただきました。

テクノロジーが発達する中で、人と人との出会いの強さ、絆の大切さ、
他者に対して主体的に行動を取る志のあり方を描いてまいります。

ぜひ、これからも応援のほど、よろしくお願い致します。
http://amanogawa-movie.com/

学校というコミュニティの在り方〜茨城県立並木中等教育学校「 ALセミナー2017」〜

アクティブ・ラーニングをキーワードにいろいろな方々より、
お仕事のご依頼をいただき、全国を回らせていただいております。

思うことに、その学校の学生さんたちの雰囲気は、
学校のトップである校長先生によって決めると感じております。

従来型=CLOSEDな環境というのは、
学校がこういう目的であるという中に、関わる人も従属的になり、
意見を活発に持てる子供たちの気持ちが塞がれる環境だと思います。

それが、いじめや自殺、盲目的な受験勉強に繋がっていると思っております。

多様性が求められ、シンギュラリティの到来が目前とされている現代において、
教育というのは、従来のように押し付けるトップダウン型ではなく、
そこにいる人が如何にして、思想を生み出し、その点を線にして、
学校という面にして、はたまた社会という立体を構築していく存在に学校がなれるかが
大切ではないかと思っております。

校長先生の存在も、如何に押し付ける、思想を植え付けるではなく、
学生が主体となり、自発的、能動的に、その空間を作り上げていけるかを
見守る、補佐する存在であれるかが、大切なのではないかと感じております。

そんな尊敬できる校長先生が全国各地に沢山おりますが、
その中のお一人である茨城県立並木中等教育学校の中島校長先生からのご依頼で
「ALセミナー2017」の講師として、登壇させていただくこととなりました。

中等教育学校とは全国に数十ある公立での中学・高校の6年一貫教育を指します。

アクティブ・ラーニングをキーワードに仲良くさせていただいております
中島校長先生は、歴史をご専門にされながら、型にはまらない考え方や取り組みを
積極的にされております。
この写真からも感じられると思いますが、学生さんたちがとても生き生きとされているのです。

小生が行うワークも、答えを一つに決めないワークです。
その中で、論理力や創造性、チーム力と行った、知識、感情、精神の三位一体を
大切にしながら、社会において求められている編集力を
如何に引き出していけるかを念頭にワークをご提供させていただいております。

毎回毎回の講演会やワークショップは、いつも新作で臨みます。

頭というのは体を動かすことで、学びが深まるという考えで内容を構成しております。

学びとは笑顔が必要であると思うのです!

駆け抜けた90分でしたが、小生も体育館を駆け回り、
みなさんと作り上げられたセミナーだったと思っております。

体育館をメッチャ走りました!
運動不足なので、いい運動になりました笑
真剣にチームでワークに臨んでいます。これこそ、アクティブラーナー!

立役者である中島校長先生
Be a top learner! まさにその通りですね!

こうして、素晴らしい共育者の方と出会えることで、小生ももっともっと精進して、
皆様に実りある作品やワークショップをご提供していきたいという志が
日々日々高まってまいります!

これからも「シネマ・アクティブ・ラーニング」と「シネマチック講演会」で
全国飛び回ります!
中島校長先生、素晴らしいご縁をありがとうございました!